ゲームミュージックの魅力についての考察

http://gmblog.seesaa.net/article/5266038.html
「ゲームミュージックの話がしたいんですよ」に、ゲームミュージックに関する大変興味深い考察が掲載されています。 古くからゲームミュージックを愛する者にとって、ある時期から度々話題に取り上げられる永遠の命題、「最近のゲームミュージックは何故その魅力を失いつつあるのか」についてです。
前述の考察では、昔のゲームミュージックが魅力的だった理由として、


かつての黎明期にあったゲームミュージックは、それ自体がゲームと共にエンターテイメントでした。ゲーム本体だけでは物足りないから、音楽も一緒になって必死になってプレイヤーを楽しませようとしてくれていました。その時、ゲームミュージックはただの「引き立て役」などではなく、ゲームと同格の位置にあったのです。
更に、限られたハードの限界を突き詰めてまでその表現をしていた理由は…

「そこまでしなければプレイヤーを楽しませることができなかったから」
と言い切っています。 それに対して、現在のゲームミュージックがつまらなくなった理由としては、

「ゲームと共に自らプレイヤーに訴えかける」、それこそが昨今のつまらなくなったゲームミュージックに欠けている要素です。プレイヤーへのアピールをゲーム本体に任せきりにして、自らは背景(=バックグラウンド)になることを受け入れたとき、ゲームミュージックはその魅力を失ってただのBGMになり下がってしまったのだと私は思います。
とあります。
なるほど…確かに私も概ねそう思えます。 昔のゲームミュージックは「主役級」の扱いを受けていたのに対し、現在のゲームミュージックが「引き立て役」にまわっていることが多いというのは私も感じていました。 明快な言葉で書くとすれば、この通りではないかと思いました。

実は私も最近、ゲームミュージックに対して色々と思うところがあって、昔と今のゲームミュージックの違いについて考えていました。 大筋としては上記とかなり重なる部分もあるんですが、以下に私の考えを書きたいと思います。
私は、昔のゲームミュージックと今のゲームミュージックの大きな違いとして、「プレイヤーの感情に訴えかけるものであるか否か」という部分が大きいと感じています。 ただ、一口にそうは云っても、これには複数の要因が絡んでいると考えています。 私の考えとしては、昔のゲームミュージックはハード制約やゲームという存在自体が置かれた環境から、ある種「必然的に」感情に訴えかけるものになっていたのではないか、という気がしています。
昔のゲームミュージックは、様々な制約との戦いでした。 チャンネル数、音色、メモリ…今では考えられないほどの様々な制約が存在していました。 それに対し、最近のゲームミュージックは、音楽的な制約は事実上ほぼ撤廃されていると考えます。 昔のゲームミュージックコンポーザ及びゲームミュージックファンは、皆口を揃えてこう云っていた時期がありました。 ゲームミュージックから制限を撤廃すればもっと表現の幅が広がるのに」と。 そのような流れから、ゲームミュージックの過渡期にはMIDICD-DAがもてはやされた時期がありました。 しかし、実際には最近のゲームミュージックから次第にその魅力が失われつつあるという現実があります。 それは何故か?
全てがそうというわけではありませんが、現在のゲームミュージックには2つの大きな流れが存在しているように思えます。 1つは、映像表現の進化に伴う、ゲームミュージックのスタンスの変化です。 映像表現は、単純なドット絵で表現していた時代から比べると飛躍的な進化を遂げ、更にリアリティは増す方向にあります。 それに伴い、ゲームミュージック「その場面の情景を的確に表現すべきもの」に変わりつつあります。 この傾向は特に、RPGなどのジャンルで顕著だと思います。 この考えは、映像中心で考えていった場合はある種正しいものであると云えます。 しかし、ゲームミュージックの視点で考えた場合、この傾向は必ずしも幸せな変化ではありません。 映像中心に考えた場合、音楽が雄弁に語ってしまうと、映像が表現しようとするものとズレが生じたり、映像が霞んでしまう可能性があります。 すなわち、この場合の音楽は、むしろ「自己主張してはイケナイ」わけです。 最近のゲームミュージックがツマラナイと云われる理由は、1つはココにありそうです。
それに対して、昔のゲームミュージックはどうだったか? 実は、先ほど書いた「ハード的な制約」という部分があって、昔は「映像の情景を的確に表現する音楽」を作るのが非常に難しく、また映像表現も、それ単体で引き立たせるほどのものを作れなかったんだと思います。 では、「映像の引き立て役」という選択肢が存在しないゲームミュージックはどういう表現を行っていたか? それは、大まかに2つあると思っています。 1つは「プレイヤーの感情を煽るための音楽」です。 これは、ゲームミュージック映像の情景ではなく、ゲームプレイ中のプレイヤーの感情を的確に表現するべき音楽だった、という意味です。 具体的には、戦う場面であれば感情を奮い立たせるもしくは緊張感のある音楽を、楽しい場面であれば軽快なメロディを、悲壮な場面であれば悲しい音楽を…といった感じです。 実は、このような音楽は、作曲者のセンスさえあればロースペックな音源でもちゃんと作ることができます。 元から、(ゲームミュージックに限らず、全ての)音楽は感情を刺激して感動を呼び起こすものだと思うのですが、これがゲームと結びつくことによって、プレイヤーは更にその印象を深めます。 ゲームへの感情移入が音楽を通じたものであること、これが当時のゲームミュージックが名曲たる所以の1つであると思います。
もう1つは、「ゲームのテーマソング的なもの」です。 現在のリアリズムを追及したゲームとは異なり、黎明期のゲームとなると、設定自体が現実世界では絶対にあり得ないものである場合もあります。 このような場合、場面からプレイヤーの感情を表現するよりも、楽曲が主体となってプレイヤーを楽しませようという方法論が取られる場合があります。 例えば、ニンジャウォリアーズの「Daddy Mulk」は、作曲者自ら「テーマソング的なものを狙った」という発言をされていたのを見たことがあります。 このゲームに場面や感情を主体として楽曲をつけるならば、この曲調の楽曲を乗せることは絶対に有り得ません。 そこを敢えてこの曲をつけたことで、ニンジャウォリアーズゲームミュージック史に名を残す傑作になり得たのではないかと思っています。 また、誰しも知っている「スーパーマリオ」の最初で流れるフィールド音楽。 「チャラッチャッチャラッチャッ」という音楽は、当時リアルタイムで体験した世代なら、誰しも口ずさむ曲だと思います。 この音楽の生まれた理由は寡聞にして存じ上げないのですが、もしかしたらマリオの容姿からラテン系のイメージで作ったものかもしれません。 思わず口ずさんでしまうような軽快なこの曲は、ゲームのヒットとも相まって、テーマソング的なものとして後世に残る名曲として認知されました。 このように、ゲームミュージックが自己主張して耳に残るものであった…これが当時のゲームミュージックが支持される理由の2つ目だと思います。
話を戻しますが、現在のゲームミュージックのもう1つの大きな流れとして、逆に「音楽が主役となっている」場合も多いように思えます。 特に顕著なのが、いわゆる「音ゲー」です。 これは今までとはまるで逆の発想で、「ゲームに音楽がついている」のではなく、「音楽自体をゲームにしてしまおう」というものです。 「音楽が自己主張していない」のが現在のゲームミュージックの魅力の無さであるとすれば、これはむしろゲームミュージックとしては最も幸せな形として表現されているはずです。 しかし、音ゲーの音楽は、一般的にその評価が大きく分かれます。 これは、逆に音楽が完全にゲームと独立し得るものであるからという部分が大きいように思えます。 音ゲーの曲の良し悪しの論点は、ゲームと絡めた部分で語られる部分がほとんど無く、実際には楽曲単体としてどうか、という部分に拠るところが大きいように思えます。 こういう評価をされている時点で、既に「ゲームミュージック」という枠から外れたものであるのかもしれません。 ゲームのタイアップで、ゲーム畑とは違う関係の薄い楽曲が乗せられたりするような場合も同様です。
では、「ゲームミュージック」として、全体的に昔の楽曲が支持される理由は何でしょう? これは、今まで書いたこと全てに云えることなのですが、昔、リアルタイムにゲームを遊んでいた世代にとって、昔のゲームミュージックは総じて評価が高いように思われます。 それは何故か? これは、当時のゲーム(テレビゲーム)が今までに存在しなかった異質なものであったが故でないかと思うのです。 テレビゲームの登場は、あまりにセンセーショナルでした。 インベーダーが日本中を席巻し、更にその数年後、ファミコンが茶の間の情景を塗り替えてしまいました。 その当時のゲームは、テレビの中で自分の操作するキャラクターが動き、敵を倒す…その情景自体がそれまでに無かった異質なもので、その事自身が興奮を覚えるものでした。 更に、当時のゲームミュージックが、日常生活では存在し得ない「電子音」であったことも、この興奮を高める要因の1つであったように思えます。 この衝撃と興奮は、当時ゲームをプレイしたユーザなら誰しも持っているものだと思います。 また、何度もゲームをやりこんだユーザであれば、ゲームと音楽の結びつきは非常に強いものでしょう。 こうなると、逆に音楽を聴いた瞬間にプレイヤーはそのゲームをプレイした頃の情景を思い浮かべるようになります。そればかりか、ゲームプレイをしていた頃の自分の置かれた状況であるとかプレイ当時の心境など、様々な記憶を追体験できるようになります。 こうなると、ゲームミュージックの果たす役割は絶大です。 すなわち、ゲームミュージックは、ゲームプレイ当時を追体験させる為の記憶の引き出しとしての役割をも担っていたのです。
ところが、現在のテレビゲームは、既に新鮮味を失っています。 既に、その存在がありふれたものとなってしまいました。 こうなると、「初めて出会えたものに対する興奮」を感じることが出来なくなるのは必然的なものであると感じます。 ましてや、「場面の情景を表現するだけで、感情に訴えかけるものが無い」音楽であるとすれば、それは尚更であるように感じます。
ただ、今のゲームミュージックが全くツマラナイものであるかというと、全てそうとは限りません。 個人的好みで恐縮ですが、例えば「ファイナルファンタジーX」の音楽。 これは、現在のゲームミュージック的傾向と、昔のゲームミュージックが持つ良さのどちらもあわせ持ち、しかも最近のゲームミュージックの中では、大きくプレイヤーの印象に残る稀有な存在であると感じています。 このゲームは美麗な映像表現とその悲壮なストーリーが肝となっているわけですが、場面に応じてそのどちらを際立たせるかが明確に分かれています。 具体的には、「映像を際立たせる音楽」と「感情を際立たせる音楽」が明快に分かれているのです。 前者の場合、無駄なものは一切ありません。 明確なメロディさえも無く、その雰囲気を表現する為のいわば環境音楽的なものが展開されます。 これらの場面の曲は、場面は覚えていても、音楽を瞬時に思い浮かべることは無いと思います。 まさに「映像を際立たせる」為の音楽です。 後者は、例えばオープニングで流れる「ザナルカンドにて」のピアノの調べ。 この音楽は、一見この場面の寂しげな情景を表すものに思われますが、ゲームを進める度に、徐々に主人公達の悲壮な決意を表す音楽へとその色を変えていくのです。 このメロディは、実はあちこちの場面でモチーフとして使われており、その時々の感情を無意識のうちに印象として植え付けていきます。 ゲームが進んでいくと、徐々にこの物語の深層が見えてきて、主人公達は悲壮な決意を余儀なくされます。 そして、ゲームのある場面で見覚えのある風景と聞き覚えのある旋律が…そうです、オープニングで見たあの情景が、再びプレイヤーの前に姿を表すのです。 実は、この物語はこの場面が時間軸の起点となっていて、それまでは全て主人公のモノローグとして回想されていたのです。 プレイヤーは、主人公の回想という形で物語の重さを知り、この場面で再び流れる旋律は、もはや単なる情景を表すものではなく、主人公の悲壮な決意を語る哀しい旋律へと姿を変えているのです。 これは、ゲームミュージックがプレイヤーの感情移入を促す音楽の役割として非常に大きな役割を果たした傑作であると感じます。 また、これと同時に映像を際立たせる音楽としてもレベルが高く、逆にそのような楽曲の存在があるからこそ、感情移入させるべき音楽が際立つ結果となっています。
現在のゲームミュージックは、どちらかというと情景を正しく表現することばかりが重視され、感情表現が疎かにされがちな気がしています。 しかし、感情表現や感情を煽るような音楽だけで良いかというと、現実問題として映像が雄弁に語りだした現状では、(ゲームのジャンルにもよりますが)それだけが許される時代では無くなってしまったようにも思えます。 今後は、これらの表現が共に良い形で共存、もしくは更なる高みを目指して良い形で融合したような音楽…そんなゲームミュージックが登場してくることを切に願います。

おまけ。
今日は体調が悪くて家で休んでたんですが、先ほどたまたま見たテレビで、宮崎アニメの作曲でお馴染みの久石譲氏が次のようなことを語っておられました。(うろ覚えなので細かいニュアンスは違うかもしれません…ご了承を)


映画音楽だからといって、一歩引いて劇伴音楽だとか単なるBGMに甘んじる必要は無い。 映像と音楽は対等だと思うし、僕はそのようにして作っている。
久石メロディが宮崎アニメと共に未だに輝きつづける理由がここにある、そんな気がしました。 今のゲームミュージックもこの精神を是非見習って欲しいと思います。