須藤真澄/マヤ

http://www.books-sanseido.co.jp/soeisha/sinkan/maya.html?MBR_NO=&SESSION=
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4881421727/
サイン本到着記念…ということで、お約束どおりレビューしたいと思います。(※かなりネタバレなので注意!)
この本は、須藤真澄氏のお蔵だし作品集ということで、今まで単行本未収録だった作品を一挙収録したものだそうです。 その為、ちょっとアクの強めの作品が色々と掲載されており、「初心者お断り」的な位置付けらしいのですが…幸か不幸か私はコレがなんと須藤真澄初体験(って書くとヱロいななんか^^;)だったんですよ。 そんなわけで、須藤真澄氏の作品の評価基準はおのずとこの単行本になってしまうわけですが、私はコレが最初で良かった気がします。 アクは強いけど、色々な意味で心に残る作品が多いです。
須藤真澄氏の作品は、まずその絵柄に特徴があります。 ファンタジー系作品では、ほぼ必ず少女(中学〜高校生くらい)が主人公で、大きな黒目&まぶた(近眼の子が眼鏡を外したような雰囲気)に、一点鎖線を用いた輪郭が独特の雰囲気を醸し出しています。 ストーリーは、主人公が現実世界のパラレルワールドに足を踏み入れる、もしくは他の人には見えない擬人化された何かが見えるといったパターンが多いようで、「マヤ」に収録されている冒頭の「プラネット・フィーダー」「フェアリー・テイルで会いましょう」はコレにあたります。 前者は夜中に主人公の前に幼い頃に最初に見た夢に出てきたのとソックリの象が現れ、その象は実は太陽の炎の欠片が象になって空から降ってきたものだった、というお話。 コレだけ書くとナンだかサッパリわかりませんが、実際そういう話だからしょうがない。(^^;) 後者は、主人公がヘンゼルとグレーテルの絵本の世界に吸い込まれ、魔女にさせられようとするところを脱出して現実世界に戻る、という話。 ココだけ切り出すと普通のファンタジーっぽい感じですが、実際はもうちょいニュアンスが違います。 須藤氏のストーリーは、擬人化した何かと交流したり、パラレルワールドに迷い込んだり…といった間も、主人公は割とすんなりそれを受け入れるといった部分に特徴があるように思えます。 つまり、「日常世界に非日常が溶け込んでいる」といった感じなんです。 しかも、それが単に不条理世界を表現しているだけではありません。 そこに出てくる擬人化した何かやパラレルワールドと交流を持つことで、主人公は何かを感じ取るわけです。 それは、具体的なメッセージの場合もあれば、言葉にならない複雑な感情だったりするわけですが、それが主人公というフィルタを通して読者の心に何かを残します。 これが、須藤氏のファンタジー系漫画の一番の特徴なのかもしれません。 マヤの中でもう1つこのパターンで心に残るのは、「雪魚の棲処」という作品。 主人公が古い寺院の井戸で発見した言葉を話す魚。 その魚は、「自分がこの世に生まれてきた理由を探している」というので、村人が集まってそれぞれ自分が考えた事を述べるものの、答えが見つからない。 しかし、そうやって一所懸命考えてくれる村人を見て、魚は「嬉しい」という「心を動かされる」感情を知るのです。 生きる意味を悟った魚は、もっと遠くへ旅する為に河に放すことを望んだものの、途中で力尽きてしまいます。 しかし村人は、河のそばでその魚を焼き、みんなで食べてしまいます。 それは、魚を特別な存在のまま生を終わらせたくなかったのだ、と。 自分の生の意味を知りたがっている魚と村人の交流を通じて、「生きる事の意味」を考えさせられる、味わい深い作品だと思います。
そして、この単行本の最後に収録されている「鶏頭樹」という作品。 これは、他の須藤氏の作品では見られない、今までとは違うパターンで描かれた作品です。 ストーリーですが、園芸部に入っている主人公の少女は学校にそびえ立つ「鶏頭樹」と呼ばれる大木と話すことができ、この世で生きているのは人間だけではない、という意識が強い少女です。 ある日、主人公の通う学校で生物部が突然変異で産み出してしまった鶏。 この鶏が産んだタマゴのトゲに触れると、触れた者はみな同じ鶏になってしまうのです。 更に、そのタマゴを割ると、そこから出た光を浴びた人も鶏になってしまう…こうして、校内の人は次々と鶏になっていくのです。 鶏のタマゴは地中に埋めてしまおうという話になったとき、「タマゴを地中に埋めてしまっては、他の生物が全て鶏になってしまう。 自分達が産み出してしまったものだから、自分達で解決しなければ」と。 そこで、鶏は全て小屋に集め、タマゴは学校のプールへ…そうしている間にも誤って次々とタマゴを割ってしまい、生徒のほとんどは鶏になってしまいます。 更には、その光を浴びて、遂には鶏頭樹さえも大きな鶏の形に…鶏頭樹の声に耳を澄ますと、「私を終わらせなければ。 自分を切ってくれ」と。 泣きながら鶏頭樹を切る少女。 みんなが学校を離れようとするも、少女一人だけが鶏頭樹に水をやる為に頑なに離れることを拒み、一人で学校に残ることに… たった一人だけ残った少女、まわりは鶏と化した生徒達と切られた鶏頭樹だけ。 ある日、鶏が一斉に鳴き始めた途端、次々と死んでいきます。 「コレは夢なんだ」と思う少女は、プールに浮かんだ鶏のタマゴを割るものの、中には何も入っておらず、何も起こらない。 これが現実なのではないかということを悟りつつあったところで、鶏頭樹に新芽が! そこに駆け寄ると、学校の外から鶏の「コケコッコー」という鳴き声。 「夢が終わる 現実の始まる−時を告げる声」という文章でこの物語は締めくくられています。
先ほど書いたとおり、須藤真澄氏のファンタジー作品は、「日常の中に普通にあるパラレルワールド」と、「パラレルワールドの住人との交流」がメインとなっていますが、この作品では最後は一人ぼっちになってしまい、しかもその世界が現実のものとなってしまうわけです。(最後の「夢が終わる」のくだりが「夢が終わり、日常世界が戻る」なのか、あるいは「非現実的な(みんなが鶏になって最後は一人ぼっちになった)世界が現実のものとなってしまう」の意味なのか、どちらにも取れる終わり方ですが、私は実は後者なのではないかと感じています) 正直、この作品は今でもトラウマになっています。 でも、このような対極的な作品があるからこそ、「アクアリウム」などに代表されるような作品が生きてくるような…そんな気がしています。
私の心の中に様々な感情を残した「マヤ」という本。 人によって感じ方は様々でしょうが、私は今のところ、須藤氏の作品集の中では最も心に残る本です。